HDDに録画していた【3.11後を生きる君たちへ~東浩紀 梅原猛に会いにいく~(NHK Eテレ)】を観た際の健忘録。観ながらタイプしたので話し言葉ママではないが内容は相違ない。
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【梅原】日本の思想は『草木国土悉皆成仏』。~天動説から地動説に変わったというけれど、哲学としては天動説じゃないかと。人間のまわりをずっとまわっている。そういう人間中心主義的な哲学は、むしろ生きとし生けるものと共存するという『草木国土悉皆成仏』の思想に帰らなければならない。
【東】実存主義的な現代で、思想の力点を個人の実存ではなく世代のつながりの側に移そうという梅原さんの提案というのはすごく強いメッセージになっていくと感じる。
【梅原】太陽と水の恩恵というものは、ギリシャやユダヤにはそういう神が欠如している。~太陽や水の恵みを忘れた文明、それをずっとやってきて近代文明になった。そういう文明の流れがあって、その文明が原子力という大変なものを発明して、現代文明は原子力をエネルギーの根源として使っている。
【梅原】日本の神道の本質は、自然の恐ろしさから出発している。自然の恐ろしさにささげ物をすることによって恐ろしい自然を恵みの自然に変えていく。自然は一面怖い暴君のような恐ろしさを持つ。一面慈母のような優しい面を持つ。この二面を西洋の文明は忘れていた。~恐ろしい自然、これに対する備えをきちんとすることが重要。備えとは「いつも覚悟しておく」ということ。
【東】人間中心主義というか、「人間」と「自然」をきっちりわけて、<人間だけが主体で自然というのは客体である>というふうに発想するのは、科学を可能にした発想だけれども、これ自体は何の科学的根拠もない。実際、現代の科学的知見はこれをおそらくはいろんなところで否定している。すでに実はそのようには世界はなってはいないので、科学の最先端のことが明らかにした知見を思想的に理解するためには、実は科学の最初にあった<主客の分離>というか<人間と人間以外のものの分離>みたいな前提を変えなければならない。
※ハイデガーについてからの流れ
【梅原】(震災の時に空襲で積み上げられた死体を思い出した話から)本当に悲惨で目も当てられないけれど、私は自分は自分ながらのことをしたらどうだと。今の文明はどこか間違っている。そういう、私は新しい哲学をつくる、という勇気をもらった。それが鎮魂だと思っている。~思想というのは「一粒の麦もし死なずば」という一粒の麦なんですよ。それをね、やっぱりまた後の人がその麦を育ててくれる。その麦がずっと後の世にも残っていく麦かどうか、私はその麦をそれなりの磁力をもって、一粒でも撒いて人の思想が育っていくと思っている。私の撒いた一粒の麦が受け継がれ、それが形を変えても良いから育ってほしいと痛感いたしました。
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話を聞きながら、年末に観た梅棹忠夫のドキュメンタリーで誰かが語っていた言葉を思い出した。<【無常】という日本独自の概念は、日本の国土(自然)の厳しさから生まれたものだ>というような内容だったと記憶している。その言葉を聞きながら、津波に流れていく全てに手を合わせる被災者の方々の映像が脳内にフラッシュバックした。
おそらく、草木国土悉皆成仏と無常感というのは、背中合わせの考え方なのだろう。「全て」を自らと同列に御霊あるものとして捉え、その「自らも含めたすべて」もまた変化し続ける(諸行無常)、どんな誰が死んでもまたは私が死んでもはたまた生まれても、世界はいつもと変わらず回り続ける、というよりそれが世界なのだというような。
川の水の流れが二度と同じで無いように、刻々とすぎる今この瞬間も二度と同じ時はない。人は年をとるにつれ、自分や周りの全ての時間に「終わり」があることに徐々に自覚的になってゆく。それは肉親や友人の死、大切な何かの喪失という具体的な経験により、刻印の如く裏付けられ焼き付けられ、受け入れるしかないということを、「知る」というよりむしろ「体感する」ようになる。そのようにして、時間、年齢を重ねるたびに、日本の思想の奥深さに感嘆することが以前以上に増えてきた。
君が代と草木国土悉皆成仏の思想の話や、梅原氏の永劫回帰の解釈には、どことなく梅原氏の包容力を感じた。何より、齢87歳の日本人哲学者が締めくくった【一粒の麦もし死なずば】という言葉に、そういう「全て」を抱きしめるかのような大きさを感じた。


